2023年5月17日、我が家の愛犬、パグのびしゃもんを亡くしました。
8歳6か月でした。
早いですよね。死因は熱中症です。
その日は例年よりも早く真夏日を記録した日でした。仕事の昼休憩の時にアスファルトを触って、
「これは散歩できない熱さだな」
なんて呟いた日でした。
「びしゃもんが動かないの」
妻の泣きじゃくる電話の声を聞き、日報も週報も付けずに飛んで帰りましたが、私が駆け付けた時には、すでに死後硬直が始まっていました。
体液にまみれた身体を抱きかかえ何度も呼びかけましたが、反応はありませんでした。
触った瞬間の生の感覚のなさ。信じたくはなかったけれど、一瞬で理解してしまいました。
「ああ、死んでしまった」
私は後悔しました。
朝の世話でびしゃもんを庭に離した時、
「びしゃもん、そろそろクーラーつけないかんなあ」
と話しかけたところだし、昼にはアスファルトの熱さを確認しながら今日の散歩は夜中だななどと考えもしたし、仕事の合間には、妻に早めに帰ってびしゃもんの様子を見てほしい旨のLINEくらいは打たなきゃな、と考えたりもしたのに、その日私は、びしゃもんに対してなんの行動も起こさなかったのです。
なかでも一番の後悔は、朝クーラーのスイッチをオンにしなかったことです。
びしゃもんは彼専用の部屋で飼っていたのですが、その部屋にはクーラーがありました。扇風機はありません。梅雨時の蒸し暑さを緩和させるためにドライ運転を付けるのがクーラー使用の始まりだったのですが、それよりも先に晴天の真夏日が来てしまいました。
このブログをここまで読んで、タイトルと内容がマッチングしていないと感じている読者もいるかもしれませんが、愛犬との死別が、私の中で仕事を辞める決意をすることにつながった理由を以下に記します。それは私の懺悔だと思っています。
- まだ5月半ばなのにもうクーラーを使うなんて、電気代が気になる
- 仕事が最優先。愛犬との時間やその世話は家族に頼めば良いという甘え
上記2点。生き物を飼うにあたって、私の覚悟がまるで足りなかったことをびしゃもんは自身の死をもって私に突きつけました。
泣いたって後悔したって、命はもう戻ってきません。最期の瞬間はどれくらい苦しかったのだろうとか考えると、本当に胸が苦しくなります。
翌日、葬儀を行い荼毘に付し、びしゃもんの骨を拾いました。骨壺を前に、私は思いました。
「電気代を気にしたり、残業ありきの仕事なんかしたりしている人間が、生き物を飼ってはいけない」
これが、私が仕事を辞めようと決意した理由です。
もちろん、ちゃんと対策をしていれば飼ったっていいとは思いますが、私のような精神的に甘い人間が、そんな考えではまた同じことを繰り返すと思い、思考をある種極振りしました。
6月で私は45歳。もし今すぐ犬を飼ったとして、その犬が15年生きたとしたら、私の人生において犬を飼えるのはあと2回が限界(30年後は75歳)。
犬を飼うという自由を選択するには、まずお金と時間をある程度自由に使えないといけない。そのために独立、ストック型収入を目指す。これがびしゃもんへの懺悔と、自分に前を向かせるための行動指針です。
コメント